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8月2日
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私は青年時代から、「頭が硬い(絵が硬い)」という指摘をうけ、なるほど絵を比べてみると“確かに硬く”、このことについて長い間考察を続けています。

 

この問題での、わたしなりの一つの結論は、目や耳から入ってくる感覚的な刺激を認識する“情報処理の質”が重要だと思っています。

視覚にしても、聴覚にしても、感覚器官が外部の刺激を受ける仕組みは誰も大きくは変わりません。

しかし、その感覚器官が受けた情報を“頭”で処理する段階で、大きな違いがでてきます。≪言葉≫の介在の仕方の違いです。

例えば、眼の網膜に飛び込んでくる光の情報量は、誰もさほど違わなくても、その情報のうち、「何を有用として何を不要とするか」という情報処理の

段階では、言葉の鍛錬や、表現の鍛錬、視覚情報の記憶とその質、物事への興味の幅などによって、ピックアップされる情報が変化します。

その情報が「花」だったとして、「花」に興味がなければ、それこそ、その人の情報処理では「ああ、花か」で終わりです。

しかし、絵のモチーフにしようと思ったりして興味があった場合、何の花だったか(朝顔)、元気に咲いていたか、

「花」に特徴は(桔梗みたいな変わった形)あったか、葉に模様はあったか、何時頃まで咲いているのか、同じ個体のなかでもいい形と悪い形は

どう違うか、紫色でも桔梗や藤の紫とはどう違うか、などきめ細やかで、踏み込んだ情報処理を行います。

 

普通の人と絵を描く人で視覚情報の処理能力が異なるのは(訓練している量の違いがあり)当たり前だと思われるかもしれませんが、

絵を描く人の中でも差はあります。この差の主な原因は「思い込み」です。

感覚器官が捉えてくる刺激は、言葉に置き換え不可能な情報を多く含んでいます。人はその情報の中から、まずは言葉で掴みとれるところを

掴んで“理解”しようとします。「前から歩いてくるのは○○さんだ」という認識に必要な情報はそれほど多くを必要とはしないでしょう。

普段生活するに必要な情報はそのレベルで十分なわけですが、感覚が捉えてくる情報はその何倍もの量があります。

それをどのように深く認識するか、という課題が視覚表現に携わる人間には必要だと思います。

そうでなかったら、視覚から新たな発見を得ることはできなくなるからです。(新たな概念も生まれないことになります)

 

しかしながら、このまだ誰も捉えたことのないものを掴もうとする試みは、非常に精神的に不安定さをともなうものです。

「何かある、けれどもそれがどのようなものか、まだわからない」という状態に耐えなければならないからです。

そのため、多くの人が、その曖昧なものを切り捨て、いままでで存在を認められているものだけがすべてと思い込むことで

安心しようとします。「これは○○なものだ」「あれは△△なものだ」と。

 

確かにそうすれば、心は安定します。しかし、新しい発見の可能性も消え去ります。難しいところです。

「思い込み」の段階にも“質”があります。あまりにも単純な「思い込み」は弊害も大きいですが、より高度な「思い込み」への

ステップアップは人の成長の段階では大切に思えます。

私の絵が、今以上にかつて硬かったのは、この「思い込み」型の認識の質がかなり単純で粗悪なものだったからだと思っています。

葉っぱを見れば「みどり」、花は「赤」と思いこめば、他の色は見えてきません。表現者にとって、質の低い「思い込み」は

致命傷なのではないかと私には(自分の経験上)思えてなりません。

 

ただ、もしかしたら、「思い込み」のステップアップという形でしか、人は認識を深めていくことはできないのかもしれません。

曖昧模糊としたものを曖昧なまま受け入れる、という不安定さに耐える心は、生半可なことでは身に付かないように思えるからです。

 

この認識の差は、絵のことだけに限らず、宗教などの対立でも同様のことだと思います。

今の時代は急速なグローバリズムの広がりによって、かつてない速度で異質な文化が交差する社会になりつつあります。

狭い集団の中で共通する「思い込み」だけでは、対立を解消することはできません。特に単純で質の悪い思い込みのズレを

異なる文化間で解消するのは非常に困難に思えます。そうした意味からも、(専門家以外の人にも)

人の認識の特性というものへの理解を進め、今一歩認識のステップアップが必要とされる時代を迎えているように思えてなりません。